Column

世界の海辺

第8回
守りたい、油壺の緑

矢部 洋一 [ヤベヨウイチ]

1957年11月11日生まれ。海をフィールドとしてヨット、ボートの写真撮影を中心に、国際的に活躍するフォトグラファー。写真だけでなく、記者、編集、翻訳などの仕事を精力的にこなす。
●株式会社 舵社・チーフフォトグラファー
●有限会社 オフィスイレブン代表取締役
●英国王立オーシャンレーシングクラブ誌「シーホース」特約記者

大変にご無沙汰をしていました。

すっかり固まったまま(もう3年近くになっていました)になった、「世界の海辺」でしたが、大海酒造さんの寛大なるお心に感謝をしつつ、謹んで再び始めさせて頂きます。

北緯76~81度、東経10~30度、ノルウェー王国と北極点とのちょうど中間くらいに位置するスヴァールバル諸島(注1)は、北極圏の海と自然を見るツアーにはもっとも人気の高い目的地のひとつだ。

この3年の間に、多くの旅をした。北極圏、太平洋、大西洋、ペルシャ湾など、さまざまな海を訪ねる機会に恵まれ、その旅の逐一を写真に収めることができた。まさにカメラマン冥利に尽きる。この逐一は、これから皆様に順次見ていただきたいと思っているのだが、その前に、長いご無沙汰ののちの最初として、ごく最近行なった写真展の話題から始めさせて頂きたい。

写真展のタイトルは「守ろう、油壺の緑 写真展」。

油壺というのは、神奈川県三浦半島の先端近くにある関東屈指の天然の小湾である。緑豊かな丘に囲まれた奥深い自然の入り江である油壺は、船にとってはきわめて安全な、母なる避難港である。台風襲来という予報が出れば、小さな湾は難を逃れようとする近隣の漁船で溢れてしまう。つまり、それほどに嵐に対して安全を確保できる場所ということである。

油壺という名前の由来は定かではないが、一説には16世紀の半ば、この地の有力豪族であった三浦一族が北条氏に攻めたてられ、行き場を失った三浦家の兵たちがこの湾に飛び込んだ。湾は血で染まり、まるで油を流したようなぬめりようとなって、それ以来ここは油壺と呼ばれるようになった、などという壮絶な逸話がそのひとつにある。

地図を見れば一目瞭然なのだが、油壺湾は、ほぼすべての方向の風に対して守られている。快適なる土地を見つけることに関しては、他に追随を許さない欧米アングロサクソン系の人々は、第2次大戦終結後、この油壺一帯を別荘地として利用した。油壺湾の北隣には小網代湾という、これまた自然の良い湾があるのだが、ここにはダグラス・マッカーサー将軍が別荘を構えていた。小網代、油壺、そして南隣の諸磯という3つの連なる湾の一帯は、米軍上級将校たちの憩いの場であったという。となれば、ボートやヨット遊びが早々に始まる。油壺にも早くからヨットが舫われ、そして日本の外洋ヨットの黎明期も、このあたりを中心にして始まっていった。

この油壺湾に、最近新たな開発計画が持ち上がった。湾を囲む丘に密生する森の一部を削り取り、道路を拡張し、ひいては巨大なマンションを建設するというものだ。

油壺の魅力、海の良さ、すべては湾を囲む森のおかげである。ここに住む者、個々で遊ぶ者、皆この森のおかげで、心を癒され、海を満喫している。その貴重な森を壊すなどもってのほかである、ということで開発への反対運動が湧き起こり、それを応援するという趣旨で写真展を開催したのだ。写真展に参加したのは、地元に暮らす人、油壺の自然を長く観察している人、この湾に長く親しむ人、そして私を含む油壺を愛する写真家など、全部で11人。おかげさまで、来場者も多く、また新聞などにも取り上げていただき、大成功を収めることができた。

この写真展で、視覚的に明らかになったことがひとつある。湾を内側から見ていると、緑豊かな、すばらしい場所に見える。写真にしても、まるで屋久島か白神山地のような写真すら撮ることができる。しかし、1点だけ、今の油壺を空(軽飛行機)から撮影した写真が展示された。これを見ると、豊かに見えていた緑は、決して豊かではなく、湾をかろうじて囲む、ごくわずかに残された森でしかないということがよく分かった。これは、大きなショックであった。この薄っぺらくされてしまった森の周りはすべて宅地となっている。

これ以上、森は壊せない。その1枚の空撮の写真は雄弁にそれを物語っていた。

これは特に油壺に限った問題ではないだろう。日本全国、自らの大切な足を食べながら私たちはこれまで経済を成り立たせてきた。しかし、もう人口は減っていく。世界も大きく変化している。自分の足を食べて、その場をしのぐという方策は、自らの首を絞めるだけに違いない。

ここに、写真展に出した作品の一部を掲載させていただいた。東京のすぐ近くに、まだこんな美しいところがあるのだ、と思って頂けたら幸いだ。海を少しでも健康にするために、自分の身の回りでできることを、微力ながらやっていこうと思っている。

2008年9月3日

▲写真上から、小網代湾(湾口近くのマリーナはシーボニア)、油壺湾(への字に折れ曲がった湾)、諸磯湾。この衛星写真がいつ撮影されたものかは定かではないが、この一帯の緑は今もさらに減り続けている。

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油壺の緑 #1

油壺の緑 #2

油壺の緑 #3

油壺の緑 #4

油壺の緑 #5

キカラスウリ。夏の夜、湾のほとりに花を咲かせる

油壺湾奥から湾口を望む 撮影/小林康紀