Column

世界の海辺

第10回
北極圏の海、ノルウェー・スヴァールバル諸島へ
その2

矢部 洋一 [ヤベヨウイチ]

1957年11月11日生まれ。海をフィールドとしてヨット、ボートの写真撮影を中心に、国際的に活躍するフォトグラファー。写真だけでなく、記者、編集、翻訳などの仕事を精力的にこなす。
●株式会社 舵社・チーフフォトグラファー
●有限会社 オフィスイレブン代表取締役
●英国王立オーシャンレーシングクラブ誌「シーホース」特約記者

「今年(2006年)は海水温が例年より2度ほど高い。だから途中海氷に阻まれて航程が変わることはないだろう。注意すべきなのは風だけだ。ここの天気はたったの2時間で凪から風速30メートル/秒の嵐へと急激に変わることがある。その予測は非常に難しいのだがね。だからこの旅には予定表というものはない。毎日天候を見ながら行ける所へ向かう。でも心配はしないでいいよ。退屈することなど絶対にありえないから」。

8月22日にスピッツベルゲン島ロングイヤービーエンを出港したMSオリゴ号と我々の一行は、同行するベテランネイチャーガイドのカールソン氏にこのような説明を受けながら、同島の西岸に沿って北上を開始した。6日間の北極圏スヴァールバル諸島を巡る自然観察クルーズの始まりである。

まず、船はニーオールスンという町の桟橋に止まった。以前の炭鉱町は現在、世界中から科学者や学生を集める研究センターとなっており、地球環境、生物学、宇宙科学など広範な分野の観測研究が行なわれている。大気圏科学が専門という韓国からの若い研究者は、「ここにいるとストレスがゼロだから楽しいよ。ソウルの人混みと喧騒を知っているだろ?」とご機嫌だった。それでも夏場には200人近くの研究者がこの町に住むそうだ。ニーオールスンにはほかにも世界最北の郵便局(ここからポストカードを出せるよう、近くにはちゃんと土産物屋がある)や、南極点への到達で名高いノルウェーの探検家、ロアール・アムンセンが飛行船を使って、北極を越えアラスカを目指した時の基地跡があって面白い。そのため、大きなクルーズ船も時おりやって来る。そんなときには1500人を超える観光客がこのごく小さな町に溢れかえるという。今や秘境などという言葉は存在しないに等しいのだ。このニーオールスンよりも北に、もう人の定住する町はない。

MSオリゴはさらに北へと航海を続けた。船内では安全講習というものが開かれた。上陸した時の注意についてである。「夏はシロクマが飢餓状態にあり危険な時期だ。シロクマは海氷の上でアザラシなどを捕獲して食べる。だから海氷が北に去っている時には狩りが難しいのだ。上陸する場合はグループの前と後にガイドがつく。2人とも非常時に備えてライフルを携帯している。だから陸上では必ずライフルとライフルとの間で行動して欲しい」。

航海中は毎日必ずどこかの静かな深い入り江に入り、小さいボートを降ろして上陸し、セイウチの群棲地に近づいたり、昔の捕鯨基地の名残を訪ねたり、あるいは第2次大戦時のドイツ軍の基地跡を見たり、北極圏の植生を観察したりと、プログラムは充実し楽しませてくれた。「へえ、こんなところにこんなものがねえ」という驚きの毎日だ。

今回のクルーズのハイライトのひとつは、スヴァールバル諸島よりもだいぶ北に移動してしまっていた海氷を見に行ったことだった。島伝いに北に向かい、諸島の最北からさらに半日ほど北上して海氷の浮かぶ海にたどり着いた。北緯81度16分。MSオリゴは微速で、氷に覆われた海を静かに進んだ。わずかに響くエンジンの音と時おり船首にあたって軋む氷の音以外はまったくの静寂の世界。氷の間に見える水面は粘着性の油のような質感にも見えた。どんよりと重く曇った空で散乱した弱い光の中で、どっきりとするほど青く透明な氷の断面が目に飛び込んで来る。荘厳という言葉がこの北極圏の海にはぴったりだった。

シロクマとの遭遇、といっても相手は氷河に覆われた島のはるか崖の上、我々は上陸用の小型ボートの上からそれを見上げていただけであったが、これも自然の過酷さを思わせるに十分なものだった。その痩せたシロクマは、「海氷と共に北に移動し損ねたのだろう」とガイドは言った。食べ物を求めてか、シロクマはひたすらに崖の上を前進し、そして氷河の陰に消えていった。我々食べ物に心配のない見物人は、野生の彼あるいは彼女を初めて見たことに興奮し、船上でひたすらにカメラのシャッターを切った。あのシロクマは無事夏を越せたのだろうか。

雄大な氷河の景色も忘れられない。白と青と緑の氷の競演。時おり氷河の前面が崩落し、海になだれをうって没していく。しばらくすると、どおおーんという地響きが遠くから聞こえてくる。そして静かな海面には大きな波紋が次々と広がっていく。

ガイドのカーステン氏は、氷河を見下ろす崖の上で、我々全員に「沈黙の時間」を設けた。しばらく何も喋らず、じっと目を閉じて、この大いなる自然を体で感じてみようというのだ。氷の大地に座り、皆が地球の鼓動に耳を澄ました。私はといえば、その間も皆の表情を撮ろうとカメラを構えていた。カメラマンとは、なんとも落ち着かぬ商売である。

2008年10月07日

地図

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スヴァールバル諸島最北端に位置するフィップス島の海岸で見られたセイウチの群れ

スピッツベルゲン島北東岸の崖の上で痩せたシロクマを発見

スピッツベルゲン島北東部・ロムフィヨルド近くの切り立った崖では、さまざまな種類の鳥を観察した。崖の岩が織りなす表情はまるで優れた抽象画のようだ

小型ボートで氷河に覆われたフィヨルドに入っていく。大自然に接して誰もが良い笑顔になる

スピッツベルゲン島北部の雄大なオズボーン氷河。時おり氷河前面に崩落が起きて海面が波立つ

スピッツベルゲン島東部、苔類に覆われた緑の丘で、冬に備え盛んに草を食むトナカイの群れに出会う