Column

世界の海辺

第16回
アドリア海クロアチアへの旅
その3

矢部 洋一 [ヤベヨウイチ]

1957年11月11日生まれ。海をフィールドとしてヨット、ボートの写真撮影を中心に、国際的に活躍するフォトグラファー。写真だけでなく、記者、編集、翻訳などの仕事を精力的にこなす。
●株式会社 舵社・チーフフォトグラファー
●有限会社 オフィスイレブン代表取締役
●英国王立オーシャンレーシングクラブ誌「シーホース」特約記者

ワインの産地として知られるペリェシャッチ半島を先端の方に向かって北西へとドライブを続ける。半島全長を7割がた走りきったあたりで、道は葡萄畑が両側に広がる丘を下り、オレビッチという小さく静かな港町に入っていく。ここは、ドブロブニク共和国以来の伝統を受け継ぐ船長たちが家を構えた土地だったと聞いていたので、そのいくつかを覗いてみたいなと考えていた。

オレビッチの海に面した通りに、紋章や船のイメージを刻んだ門構えを持つ石造りの邸宅が、ひとけもなくひっそりと佇んでいる。歴史的な建築物として外来の客にも開放をしている家があればと思っていたが、残念ながらそういう家はなかった。なぜ?と町の人に聞くと、どの家も時代を経て、相続をした人の数が多くなりすぎ、皆がそれぞれに権利を主張するので意見はまとまらず、結局何にも使われないままになってしまうのだという。

港近くに小さな海洋博物館がある。昔は市民会館だった2階家で、海運で重要な位置を占めていたオレビッチの船乗りたちが残した品々や記録が展示されていて面白い。

オレビッチの対岸は、狭い海峡を隔ててコルチュラという名前の島である。島の歴史は古く、新石器時代から人が住み、紀元前にはギリシャの殖民都市が作られたとガイドブックにある。

オレビッチの港からフェリーに乗ると、数十分でコルチュラ島に渡ることができる。島の多いクロアチアの沿岸にはカーフェリーが縦横に運航されていているため、車を使っての島めぐりが容易に可能だ。

興味深いのは、この島の中心であるコルチュラの町がマルコ・ポーロ生誕の地であると言われていることだった。コルチュラの町は島の東北端の、小さく突き出た岬の上に建設されている。岬は海からの侵略に備えて石積みの壁で囲まれ、町全体が要塞のようになっている。町の家並みは南北につらぬくメインストリートを中心に、規則正しい葉脈のようにのびる街路をはさんで立て込んでいる。街路は、夏に心地よい西風を町中に運び、冬には冷たく強い北東風から町を守るようにと考えられているのだ。

マルコ・ポーロは“東方見聞録”を著して、中国やインドなど東アジアの社会や風俗を初めて西欧に広く伝えた(実際には、別の筆者がポーロの話を口述した)。この本は聖書に次いで多くの国の言葉に翻訳され出版されてきたという。商人の子であり、偉大なる旅人であったマルコ・ポーロは、優れた船乗りでもあったようだ。1298年にコルチュラ島の沖で起きたベネチア共和国とジェノバ共和国との海戦で、ポーロはガレー船を率いてジェノバ軍と戦った。戦いに負け、彼は捕虜となって牢に入れられた。牢の中で口述された彼の長い旅の記憶。父と叔父にしたがって出発したポーロの20年間に及ぶ東方への旅。これがまとめられて東方見聞録となったのだ。

コルチュラには、ポーロという姓や、マルコという名の人が大勢いて、それぞれ子孫であることを自認しているという。きっと元祖や本家というのもあるに違いない。

2009年4月13日

地図

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オレビッチからコルチュラ島に渡るカーフェリーの上から見たペリェシャッチ半島の雄大な姿

小さな岬全体を利用して建設されたコルチュラの旧市街。海からの侵略に備えた要塞のような姿がわかる

旧市街の狭い路地から町の中央にそびえる聖マルコ大聖堂を見る。夏は心地よく西風が抜けるように、冬は冷たい北東風を通さないように、コルチュラの街路は設計されている

コルチュラの旧市街で、引退した船長の家に案内をしてもらった。先祖代々、船に関わる仕事に就いてきたという生粋のダルマチアの船乗りの家。書斎は潮の香りに溢れていた

船長の家の外観。質実剛健、という言葉がダルマチアの船乗りには当てはまるようだ

15世紀前後にダルマチア沿岸で活躍していた「カラカ船」と呼ばれる商船の模型

コルチュラ島からは、フェリーを乗り継いで、同島の北に位置するフヴァル島へと渡った。フェリーの着いたフヴァル島東端スチュライ港入口で見つけた雰囲気ある灯台

フヴァル島西端に位置するフヴァルの町。この町と近隣の島には知る人ぞ知る隠れたリゾートがある。それは次回、ご紹介いたします