第23回
フランス領ポリネシアマルケサス諸島 その4
ゴーギャン他界の地、ヒバオア島へ
矢部 洋一 [ヤベヨウイチ]
1957年11月11日生まれ。海をフィールドとしてヨット、ボートの写真撮影を中心に、国際的に活躍するフォトグラファー。写真だけでなく、記者、編集、翻訳などの仕事を精力的にこなす。
●株式会社 舵社・チーフフォトグラファー
●有限会社 オフィスイレブン代表取締役
●英国王立オーシャンレーシングクラブ誌「シーホース」特約記者
アラヌイ3がマルケサス諸島に着いてから3日目の朝、船は南に進み、ヒバオア島に入った。マルケサス諸島は、大まかには北西側の島群と南東側の島群に分かれる。ヒバオア島はその南東側に集まる島々の中で最大の島だ。
この島を世界に知らしめたのは、なんと言ってもフランス人画家、ポール・ゴーギャンである。ゴーギャンは晩年の、亡くなるまでの3年間近くをヒバオア島で過ごした。
ゴーギャンの絵は今や世界中で知られ、大変な額で売買されている。最近のニュースを調べてみたら、2007年のサザビーズのオークションでは「テ・ポイポイ(朝)」という絵が、なんと3920万ドル(当時のレートで約44億円)という価格で落札されている。
サマーセット・モームの「月と六ペンス」はゴーギャンをモデルに書かれた小説だが、これも世界中で広く読まれている。誰もが「ゴーギャン? ああ、タヒチを描いた画家ね」と知っている。でも、この画家がマルケサス諸島ヒバオア島で息を引き取り、墓もこの島にあることを知る人はあまり多くない(と思う)。
30歳を過ぎてから画家を志して以後、50歳を過ぎてヒバオア島に移り住むまでの約20年間、ゴーギャンはずいぶんと苦しみ辛酸を舐めたらしい。
年表によると、彼は中学校のあと海軍兵学校を目指したが試験に落ち、見習い船員として商船に乗ることになったとある。20歳のときには兵役で海軍に入隊している。海軍に強い憧れを抱いていたのだろうか。少なくとも、ゴーギャンはかなり「海が好き」だったことには間違いない。
兵役後、彼は24歳で株の仲買人として会社勤めを始め、25歳で妻を持った。5人の子供にも恵まれた。絵を描き始めたのは26歳からとある。そして35歳で会社を辞め、彼は画家としての道を選んだ。しかしゴーギャンは生きている間には画家としてあまり認められず、亡くなってのちに高い評価を受けた。享年は53歳の目前。この頃になって、ようやく絵が売れ始め、その金でヒバオア島に移り、念願だった原始により近い生活を得た。しかし間もなく彼は世を去ってしまう。ヒバオア島での暮らしは3年に満たなかった。
しかしゴーギャンはヒバオア島に建てた家を「喜びの家」と名付けた。その高床式の家が当時のままに復元され、ゴーギャン記念館の一部となって今も敷地の中に建っている。記念館のギャラリーには、彼がタヒチで描いた作品の複製がずらりと並んでいる。すべて複製ではあるけれど、ポリネシアの光と空気の中で見るその作品群は、見る者の心にぐっと迫ってくる。
アラヌイ3のヌクヒバ島での観光ハイライトは、なんといってもアツオナという町にあるこのゴーギャン記念館と、その丘上の墓地にあるゴーギャンのお墓詣でだ。アラヌイ3が停泊するのはアツオナ湾の東方の深い入り江の岸壁。そこからアツオナの町までは歩いても大した距離ではない。
アツオナの町の散策が終わると、お昼になる。昼食は皆で「ホア・ヌイ」という町一番の食堂に食べに行く。自然の恵みが生かされたマルケサスの料理がまことに美味しい。
午後はフリータイム。そこで、マルケサス諸島の中でも、もっとも規模の大きい重要なメアエ(聖域)のひとつというタアオア渓谷のウペカへと分け入ってみた。渓谷の奥にある霊験あらたかな場所である。空には厚い雲が垂れ込め、時おり驟雨が降る中を、聖域に踏み入り写真を撮り始めた。すると雲間から一瞬美しい光が射し込み、みずみずしい緑と黒ずんだ石積みの遺跡をきらきらと浮き立たせた。まさに光明。撮影のあと、深く感謝を捧げたのは言うまでもない。
2011年2月25日
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